鹿児島県と福島県 薩摩と会津

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以前、農泊の集まりで鹿児島本土の頴娃町薩摩半島)という町に行ったことがある

30人くらいの中高齢者が集まっていた頴娃町公民館にて、僕が

「みなさん。はじめまして私は生まれも育ちも福島県で、今は種子島に住んでいます」と挨拶を始めたら、

会場内がざわめき出したのだ!

そして一人の老人が僕に近づき、深々と頭を下げ、

「すまんかったのぉ、でもな西郷どんは最初から反対やったんだ、わかってくれな!」

と言い、静かに去って行った

 

その時、歴史にうとい僕は「何のこっちゃ?」状態でしたが、その後会津と薩摩の歴史を調べ、なんとなく理解したことを今回のブログにします。

 

時は江戸時代末期の1854年

200年にもわたる鎖国政策にも終わりが見えて来た

日本近海には、外国からの船が頻繁に現れ開国を要求してきたのだ。

 

そんな折、日本より遥かに大きい清(中国)がアヘン戦争でイギリスに敗れるなど、西洋の圧倒的な軍事力の差から、幕府はついに開国に踏み切ったのでした。

 

しかし急に欧米文化などの国際社会が江戸に入り込み、開国後の国内は波乱万丈で、経済システムも理解できずに、深刻なインフラ状態で国民は幕府に対し不満だらけでした。

 

そんな中、以前から幕府に対して文句があった長州藩山口県)はアメリカの商船を独断で爆破するなど、

京都を拠点にしながら、天皇を上手く利用し、徹底して外国との交流を反対していた。

尊皇攘夷

あまりにも過激な行動をする長州藩に対し、朝廷からの命令で、会津藩薩摩藩が協力して、京都から長州藩を追い出したのが、1863年であった。

八月十八日の政変

 

この時点で、会津藩薩摩藩は仲良しこよしの同盟藩。

 

頭にきた長州藩はその後も薩摩の船を撃沈するなど過激な行動を繰り返していた。

 

翌年の1864年の「禁門の変」では、会津藩長州藩に殺されかかっている時に、「西郷隆盛」率いる薩摩藩が加勢に駆けつけ、会津藩の命を救ってくれたこともあった

 

 

そんな事もあり会津藩薩摩藩は助け合いながら、同盟藩から兄弟藩になり、お互いに信頼の酒を飲み交わしたのである。

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それから数年後の1868年

坂本龍馬の影響で、犬猿の仲だった薩摩藩長州藩が同盟を結び、幕府を倒す為のクーデターを開始しました

外国製の武器で完全武装した彼らは簡単に無血開城江戸城を落とし、さらに北上した彼らはついに会津藩までを殺しに来ました。(戊辰戦争

昨日まで兄弟だった薩摩藩がいきなり敵になり、しかも長州藩と一緒に襲ってきたもんだから会津藩はビックリ!!えっえええエ〜

一般村民(子供、女性、老人)までも巻き込む悲惨な戦いが続き、ボコボコにやられた会津藩は身も心もズタボロになり完全敗北しました。

会津のシンボルでもあった鶴ヶ城も薩摩砲弾に崩れ落ちました。

大河ドラマ 八重の桜)

 

この戦いから、会津の人々の心の一番深い所に「薩摩藩」が入り込んだのである。

ざけんじゃねぇ〜 裏切り者ぉ〜

此の恨み晴らさでおくべきかぁ〜

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薩摩、長州藩が起こしたクーデターは大成功に終わり、265年続いた平和な江戸時代(徳川幕府)は終止符を打つ事になりました

これが「明治維新」です

 

そうして現在に至る近代国家日本が始まりました。

初代総理大臣に伊藤博文(長州)が抜擢されるなど、クーデターをおこした長州藩薩摩藩の実力者達で新政府が設立され、明治時代の始まり始まりぃ〜。

 

しかし、所詮はイギリスに美味しい話をふっかけられ、資金まで出してもらい、実力もないままその気になっておこしたクーデター。

 

昨日まで、チョンマゲ頭で刀をぶら下げ、着物を着ていた我々が、急に内閣だの警察だの、銀行だの大学だと言われても、何がなんだかサッパリわかりません。

 

そんな中、薩摩代表であり、クーデターの第一人者でもある「西郷隆盛」が考えの違いから内閣を脱退し、鹿児島に帰りました。

そこで待っていたのは新政府に不満だらけでイライラしていた薩摩の武士達でした。

 

彼らの心の中は

「俺たちの力で徳川幕府を倒し、新政府ができたのに、新政府の奴らは自分たちばかりいい生活をして、俺たちの生活の事はどうでもいいと思っている!!ゆるさん!」

 

そうして薩摩の武士達の不満が溜まっていき、明治維新から10年後の1877年、ついに「西郷隆盛」率いる薩摩の武士達と新政府軍とで戦争が始まりました。(西南戦争

 

戦争と言っても今までの戦争とは訳が違います

侍と自衛隊の戦いみたいな感じですよね

 

それでも武士道の魂を本気でぶつけてきた薩摩武士達の力も凄い物があり、戦いは互角でした。

そんな時、元会津藩士も新政府軍として参戦し、大活躍をしました。

あの時の悔しさ、あの時の恨み、、、、晴らさでおくべきか!!

兄弟の杯を交わし合った仲間に妻、子供、親を殺された元会津藩士の心の一番深い所にあった「戊辰の恨み」が湧き出てきた瞬間でした。

薩摩武士達は新政府軍が立てこもっていた熊本城をもう少しで落とせたのに、元会津藩士の因縁の大活躍もあり、ズタボロで鹿児島に引き返し、

敗北を確信した西郷は自刃し、戦いは終わりました。(大河ドラマ 西郷どん

 

この西南戦争が日本国内の最後の内戦です、、

 

長くなりましたが、薩摩半島にある頴娃町公民館でおじいちゃんが福島生まれの僕に謝ってきたのは、こんな歴史があったからです。

 

時代は越え、福島県生まれの僕が今は鹿児島県に住みながら

「福島で起きた人類史上最悪な事故を鹿児島で繰り返さないでください」と呼びかけ、鹿児島の自然を守る活動をしているんですよね。

歴史を知ると、それって不思議な因果を感じますね。

 

話は戻りますが、薩摩と長州を結ばせた坂本龍馬

若い衆を何十人も雇い、日本中を駆け回ってた男。

旅費、宿代、食事代などなど、

いったいその莫大な資金はどこから出てたのでしょうか?

そして誰に殺されたのでしょうか?

 

徳川幕府が所有していた膨大な埋蔵金はどこの国が持って行ったのか?

 

武器商人のグラバーの陰の存在である、ロスチャイルド家

日本銀行だけでなく、先進国の全ての銀行を牛耳っているユダヤ財閥って何?

 

フリーメイソンイルミナティって何?

 

大英帝国は何故日本をアヘン漬けにしなかったのか?

 

265年続いた江戸時代はとても平和な時代でした。多少の小競り合いはあったけど、

自然を大切にし、持続可能な生活を送り、それでいてハイレベルの文化を持ってました。

それなのに、明治維新から始まった近代国家日本は、その後金目当て、領土目当ての戦争が80年も続いたのは誰の命令?

 

ロシアが利用価値のない、北方領土を返してくれないのは何故か?

 

日清戦争で日本は中国に勝ち、日中戦争で負けたカラクリは?

 

幕末を語るといろいろ気になるキーワードが出てきますよね!

その辺も徐々に話していきますので、今日はこのへんで。おやすみなさいです。